本稿では、まず『荘子』「斉物論」の一節を手がかりに、その思想の核心を読み解く。そのうえで、この思想が江戸時代にどのように受容され、松尾芭蕉の「風雅」の文学へと展開していったかをたどりたい。
1.「斉物論」にみる荘子思想
『荘子』の「斉物論」には、次のような一節がある。
齧欠、王倪に問いて曰わく、「子は物の同じく是とする所を知るか。」
曰わく、「吾悪んぞ之を知らん。」
「子は子の知らざる所を知るか。」
曰わく、「吾悪んぞ之を知らん。」
「然らば則ち物には知無きか。」
曰わく、「吾悪んぞ之を知らん。然りと雖も、嘗試みに之を言わん。庸詎(なん)ぞ吾が謂う所の知の不知に非ざるを知らんや、庸詎ぞ吾が謂う所の不知の知に非ざるを知らんや。
且つ吾嘗試みに女(なんじ)に問わん。民は湿に寝ぬれば則ち腰疾み偏死するも、鰌(どじょう)は然からや。木に処れば則ち惴慄恟懼するも、猨猴は然らんや。三者孰か正しき処を知らん。民は芻豢(すうかん)を食らい、麋鹿は薦(せん)を食らい、蝍且(むかで)は帯(へび)を甘しとし、鴟鴉は鼠を耆む。四者孰か正しき味を知らん。猨は徧狙(へんそ)を以て雌と為し、麋は鹿と交わり、鰌は魚と遊ぶ。毛嫱・麗姫は、人の美しとする所なり。魚は之を見て深く入り、鳥は之を見て高く飛び、麋鹿は之を見て決驟す。四者孰か天下の正しき色を知らん。
我自り之を観れば、仁義の端、是非の塗(みち)は、樊然(はんぜん)として殽乱(こうらん)す。吾悪んぞ能く其の辯を知らん。」
齧欠曰わく、「子は利害を知らざれば、則ち至人は固(もと)より利害を知らざるか。」
王倪曰わく、「至人は神なり。大沢焚くれども熱からしむる能わず、河漢冱(おこ)れども寒からしむる能わず、疾雷 山を破り風 海を振るわせども驚かす能わず。然るが若き者は、雲気に乗り、日月に騎がりて、四海の外に遊ぶ。死生も己を変うる无し、而るを況んや利害の端をや。」
池田知久(2014)の注釈書では、この節に「第三章 対立する仁義・是非・利害を全て棄て去って」というタイトルをつけた。この章の全体的な理解を適切に概括していると言える。以下では、三つの視点からこのテキストを読み解いていく。
1.1 世間知の虚偽――無知こそが真知
この問答において、王倪は「知らない」という答えを繰り返す。
知者として名高い王倪が完全に知と無縁であるなら、逆に「知っている」と思い込んでいる一般の者こそが実は無知なのではないか。この問答は世間知の虚偽性を暴いているのである。
池田(2014)によれば、このテキストが成立した戦国末期(前三〇〇年ごろ)、「無知こそが真知である」という知識論はまだ広く流布しておらず、思想界において極めて斬新な知見であったと位置づけられている。
1.2 荘子の至人像――儒家との対比
まず、荘学と儒学の聖人像を比較してから、前述テキストの「至人」を検討しよう。
荘子の至人は、自己や功名を手放し、万物と一体となって自由に生きる理想像である。「至人無己,神人無功,聖人無名」(逍遙遊)は、その超越性を端的に示す語である。修養法としては「墮肢體,黜聰明,離形去知,同於大道,斯謂坐忘」(大宗師)に見えるように、知覚や分別への執着をゆるめて道に同調するのである。自他の扱いは「天地與我並生,而萬物與我為一」(齊物論)の一句に要約され、差別や価値づけを相対化する視座である。
これに対し、儒学の聖人は、人倫と礼を中心に自己を整え、社会秩序を実現する理想像である。「克己復禮為仁」「道之以德,齊之以禮,有恥且格」(論語)は、徳と礼による自己統御と教化の原理を示す。「格物致知,誠意正心,修身齊家治國平天下」(大学)は、内面の誠を起点に秩序を外へ展開する学の道筋である。「聖人,人倫之至也。欲為君,盡君道;欲為臣,盡臣道」(孟子)は、役割倫理の徹底を語るものである。総じて、荘子は規範を超えて自然に応ずる自由を説き、儒学は規範を内面化して秩序を築く道を説くのである。
儒学が主流となる中で、荘学を批判する学者や政治家も少なくなかった。西晋の郭象は『荘子注』において、「應而非會,則雖當無用;言非物事,則雖高不行」と述べ、荘子の思想は優れているが現実離れしており、国家を治める「経国」の学問にはならないと評した。東晋の官僚である王坦之も「其言詭譎,其義恢誕」と、意味不明で誇大不実だと批判した。後世の朱熹や王陽明なども、倫理や君臣の義から逃避している点や、坐忘・無待の修行によって虚無の境地に落ち込んでしまうと批判している。
しかし、こうした批判は、至人の境地を一面的に捉えたものにすぎない。テキストに戻れば、王倪は至人を「生死といった重大問題ですら、自己を変えることはない。まして利害の端くれなど、心にかかるものかね。」と描いている。至人は、大自然の猛威や生死といった重大な問題に直面しても、自己を見失うことがない。ましてや、世俗の利害などに心を動かされるはずがないのである。先に王倪が「我自り之を観れば、(中略)吾悪んぞ能く其の辯を知らん。」と語ったのも、人間の狭い視野では真理を捉えきれないという限界の自覚であった。至人は、そうした自我の限界を超え、何が起きても穏やかで動じない。狭い価値観や分別から解き放たれて自由になったからこそ、儒学が虚無の境地と思い込んだのは、むしろ利害や是非を超えた、その先にある広大であるが未知な景色なのかもしれない。
1.3 空虛に堕ちるか――その先にあるもの
我自り之を観れば、仁義の端、是非の塗は、樊然として殽乱す。吾悪んぞ能く其の辯を知らん。
を分かりやすくいうと、私の目から見れば、仁義の条理だの、是非の筋道だのは、ごてごてと入り乱れているばかりで、私にもそれらの区別がつかないほどだ。
この一文だけを切り取れば、「仁義や是非の区別を完全に否定した」「知識が混乱していて真理など存在しない」と短絡的に読み取られてしまうかもしれない。歴史上で『荘子』が批判されてきた理由もここにある。例えば、王陽明は「仁義之失,既已墮於空虛漭盪」と批判した。
しかし、前後の文脈を踏まえれば、その真意は明らかである。1.1で述したとおり、個人としての無知さを自覚する重要性が示された文、「我より之を観れば、(中略)吾悪んぞ能く其の辯を知らん」が語られたのである。そして、それに続く文脈も重要である。
齧欠曰わく、「子は利害を知らざれば、則ち至人は固より利害を知らざるか。」
これに対する王倪の答えが、1.2での至人の描写である。至人は単に利害を知らないのではなく、利害や是非といった相対的な価値観を超越しているのである。
ちなみに、王倪とは一体どのような人物なのだろうか。『荘子』外篇の「天地」には、「堯之師曰許由,許由之師曰齧缺,齧缺之師曰王倪,王倪之師曰被衣」という系譜が記されている。しかし、「天地」篇は荘子本人が書いたとされる内篇ではなく、弟子や後世の手による外篇であることに注意が必要である。池田(2014)によれば、この「天地」の人物系譜は「斉物論」や「応帝王」といった以前の篇を参照してまとめられたものであり、系譜と問答の内容に矛盾が見られる箇所もあると指摘している。
したがって、王倪をこの系譜から絶対的な知者として固定的に捉えるのは適切ではない。むしろ彼は、一般の「知」の限界を超え、自らの無知を知ることで、世の道理が「樊然として殽乱す」ることを悟った人物である。そして同時に、彼自身もさらなる「至人」の境地を確実に目指している求道者として描かれていると理解すべきである。
参考文献
- 池田知久(2014)『荘子 全訳注(上)』講談社